[PR]起業を応援!50万プレゼント:働く皆へ♪今なら全て無料で車まで当る!
Sylva Koscina's Biography
1933年8月22日、ユーゴスラヴィアのザガブリア生まれ。第二次大戦後の45年、姉を頼ってイタリアに移る。ナポリ大学医学部在学中の54年、イタリア一周自転車レースの優勝者に花束をささげる美女に選ばれ、優勝者にキスしている彼女の写真が、新聞・雑誌・ニュース映画等をにぎわし、ジャーナリスト達の間では彼女の新鮮な美しさが秘に話題になりはじめていた。そんな噂を耳にしたある映画監督が彼女にスクリーン・テストを受けることを薦めた。これがきっかけで大学を中退して映画界に入るが、しばらくは役に恵まれず失意の日を送る。56年、ピエトロ・ジェルミの「鉄道員」で長女ジュリアに起用され、一躍スターの座を獲得した。
20才代の頃は、その清楚な美しさから当時流行していた史劇を中心に活躍。30才代に入ると、その美しさに磨きがかかり、さらに大人の女性としての色香も加わり、コメディー・スパイアクション・戦争映画等数多くの作品に出演し、イタリアだけでなく、アメリカ・イギリス・フランス・ドイツ等で国際的に活躍するようになった。
しかし、彼女の魅力が本当に発揮されるのは、30才台後半からの一連の作品であろう。最初に彼女がその肢体をさらしたのは、「マルキ・ド・サドのジュスティーヌ」。ここでは、入浴シーンで豊満な肉体をさらし、世のコシナファンを驚かせた。その後、イタリアのベストセラーを原作に(角川文庫にあったが絶版)、マウロ・ボロニーニ監督の「彼女と彼」でさらに大胆なヌードシーンを披露した。これは、彼女の代表作といってもいい作品であり、公開当時はある程度話題にもなったが、現在では忘れられた作品となっている。
日本国内ではこの作品以後、70年代では「黄金の7人/エロチカ大作戦」、「皆殺しハンター」、「ボッカチオ」と3作しか公開されなかった。この当時ヨーロッパでは盛んに出演作品が作成されており、彼女の妖艶な肢体に魅了されたファンとしては、非常に残念である。
80年代に入り、もはや40才台も後半を迎え、70年代前半に肉体派で売っていた彼女の作品を国内で見ることはできないであろうと思っていたら、なんと「サンデーラバース」という作品に彼女が出演しているではありませんか。久し振りに出会えた彼女に感涙ものでした。映画のパンフレットの解説ではあまり高く評価されていないが、彼女のファンとしてはもう大満足の作品である。参考までに解説を引用すると、
そして、最後に登場する世にも恐ろしいザイラに扮するのがシルバ・コシナ・・・ということになっている。オリジナル・プレスにもハッキリそう書いてある。もし、彼女がシルバ・コシナであるとすれば、「黄金の7人・エロチカ大作戦」などに出演し、B級コメディやアクション映画のセクシー・パートはおまかせ、という感じで形のよいオッパイやくびれたウエストで、ボクを悩殺してくれた女優だ。しかし、ボクには、どうしても彼女がシルバ・コシナだとは思えないのだ。あまりにも顔とスタイルが違いすぎる。・・・これも20年という歳月なのだろうか・・・謎だ・・・。
これを書いた人が、本当に彼女に悩殺されていたのなら、感激こそすれ、このような評価はできるものではない。結局彼は単に女の裸であれば誰でもよかったということを告白しているようなものである。
それとは逆に、最近出版された、洋泉社の映画秘宝シリーズの中の一冊「セクシー・ダイナマイト猛爆撃」では、彼女の本当の魅力を認識している浅尾敦則氏により、シルバ・コシナについて、次のような評論がされている。
「キッスは殺しのサイン」(66年)は、黒幕ナイジェル・グリーンとその部下の女殺し屋エルケ・ソマーという配役は「破壊部隊」と同じだが、ここでソマーのパートナーを演じるのがシルバ・コシナで、これがいい!念のためもう一度いっておこう。コシナはいい!
ヨーロッパ女優の中でも日本人好みのタイプで、「押さば引け引かば押せ」の雰囲気が漂っている(こんな説明で彼女のよさが理解できたらあんたはエライ!)ちょっと応蘭芳っぽい(古いね)感じの大人の色気をにじませている人です。
また、同じ本の中で中島紳介氏も同様に愛情あふれるコメントを披露しているので、次に引用します。
さて、シルバ・コシナといえば、「鉄道員」(56年)の長女役で有名なイタリアのグラマー女優。満月のような丸い顔になんともいえない色気があり、50〜60年代の史劇や戦争映画で活躍したが、あまり役柄に恵まれず、現在では忘れられたスターといっていい。
ビデオで観られる作品も、フェリーニ一流の悪趣味な厚塗りが目立つ「魂のジュリエッタ」(64年)や添え物的なヒロインを演じた露出度ゼロの「ネレトバの戦い」(69年)、「要塞」(70年)、あるいはロッサナ・ポデスタとともに盛りをすぎてからのヌード(それでも充分に色っぽかったが)を披露した「黄金の7人/6+1エロチカ大作戦」(71年)などが出ているものの、現在ではほとんどが廃盤状態。「イスタンブール」をはじめ「地上最笑の作戦」(63年)、「秘密指令/バラカX−13」(66年)、「キッスは殺しのサイン」(66年)といったマニアックな代表作はもちろん、彼女の絶頂期の美しさを刻印した映画に出会うチャンスは皆無に等しいのである。
ところで、そんなファンの渇きを癒してくれるのが、テレビ東京の映画枠「午後のロードショー」(月〜金、午後1時〜2時55分)だ。ここで観た「放浪の剣豪」(62年)のシルバ・コシナたるや、もう信じられないくらいかわいかったぞ。
というように、一部では評価され、根強いファンに支えられ、本国イタリアでは94年まで映画出演していましたが、残念ながら1994年12月26日、ローマの病院で死去しました。日本国内の新聞の死亡欄にも出ましたが、その中では死因は明らかにされていないとのことでした。しかし、外国の新聞記事を検索すると”心臓病で長期の闘病のすえ死亡”とのコメントが病院のスポークスマンから発表されたとの記事がありました。いずれにせよ、私たちに本当の女性の魅力を教えてくれた彼女に感謝し、心よりご冥福をお祈りします。
海外から、こんなメールをもらいました。ああ・・・
IN THE 1980'S SYLVA KOSCINA HAD A LONG RUNNING LIVE THEATRE PERFORMANCE IN ROME. BY THEN A MATURE BUT STILL BEAUTIFULL SYLVA, PERFORMED EVERY NIGHT IN THE NUDE. I REMEMBER AT THE TIME SEEING PICTURES OF THE PLAY.
スクリーン 1969年2月号にこんな記事が載っていました。
68年のイタリア映画界は監督協会の新旧世代への分裂や、ベネチア映画祭の騒動など、多難な年だった。このようなイタリア映画界の分裂・対立を悲しみ、多くのイタリア映画人により、新しく”イタリア映画アカデミー”がこのほど創立された。この会は”映画芸術とその批判的問題及び表現の自由の前進に貢献しイタリア映画のための具体的な文化活動を推進し、支持すること”を目的としたものであり、高名な評論家のジャン・ルイジ・ロンディ氏の提唱により設立された。日本にもなじみ深い多くのスターや監督、プロデューサーが発起人に名をつらねている。女優ではクラウディア・カルディナーレ、ヴィルナ・リージ、シルバ・コシナ、ジーナ・ロロブリジダ、モニカ・ヴィッティ、ロザンナ・スキャフィーノ、カトリーヌ・スパークなど。男優ではヴィットリオ・ガスマン、ニーノ・マンフレディ、アルベルトー・ソルディ、ウーゴ・トニャッツィなど。監督ではマウロ・ボロニーニ、ルキノ・ヴィスコンティ、フランコ・ゼッフィレッリ、フェデリコ・フェッリーニなどである。この他、著名なプロデューサー、キャメラマン、作曲家などが参加していますが、この発起人の中から、ジャン・ルイジ・ロンディ、シルバ・コシナ、フランコ・ゼッフィレッリなど11人が実行委員となり、今後のアカデミーの運営に当たることになっている。
コシナのイタリア映画界での位置づけが良く判る記事だと思います。
「日本伊製恐怖映画協会」提供。イタリアで出版された映画事典におけるコシナの記事 ... NEW
DIZIONARIO DEL CINEMA ITALIANO, LE ATTORICE(イタリア映画事典・女優編)
R.Chitti, E. Lancia, A. Orbicciani, R. Poppi 共著
GREMESE EDITRORE 社(1999) 定価 L 6,000
コシナの記事は1ページ半に渡っている。多くの女優は1/3〜2/3ページ程度なのでかなり大きな扱いである(但し、出演作が多く作品リストが長いということもある)。これを日本でも著名だった他の大女優と比較してみると、C・カルディナーレやM・ヴィッティと同程度、C・スパークやR・ポデスタには勝っているが、S・ローレンやA・ヴァリよりは劣っている(この両名は別格扱い)。
解説文和訳(部分的に意訳・補足)
シルヴァ・コシナ(シルヴァ・コスキノン)
1933年8月22日クロアチア、アグラム生まれ。1994年12月26日ローマ没。
スラヴの生まれであり、彼女のキャリアはその当時の国際的な分野にまで及んでいるが、いかように見てもイタリア映画の一女優である。美しく、優雅で、親しみやすく、甘く、そして同時に強い意思を持っていたコシナは、感動的な物から喜劇的な物まで、冒険物から刑事物まで、殆ど全ての映画ジャンルを駆け抜けた。彼女が常に示した卓越した職業意識ととりわけ役柄への完璧な適合は、フェリーニ、リージィ、ボロニーニ、コメンチーニ、ザンパといった監督の眼鏡にかなうのに十分であった。
ギリシャ人の父とポーランド人の母との間に生まれ、彼女は幼くして家族とともにイタリアに移住する。はじめはベルガモ、ブレッシャ、アンコーナといった町を転々とするが、最終的にナポリ大学物理学部に入学。とても魅力的で健康的、それに写真写りが良かったので、コシナはイタリア一周自転車競争「ジーロ・ディターリア1954」で花束を渡す美女「ミス・ア・タッパ」に選ばれた後に映画製作者たちから出演依頼が寄せられ、彼女はこの機を逃さなかった。彼女の銀幕デビューは殆ど知られていないが、女優志願者役で喜劇俳優トトと共演した“Siamo uomini o caporali”(1955)である。とは言え、この作品で初めてカメラと相対(あいたい)したことが、彼女をP・ジェルミの『鉄道員』出演にまで押し上げることになる。なぜなら、これがおそらくこの女優に対して与えられた最初の人間的な役だったからである。
『鉄道員』で得た成功により、彼女はこの頃から売れっ子女優となり次々と映画出演するようになるが、その多くは彼女と彼女の才能にふさわしくない物であった。彼女は芸能面を最もにぎわした人物の一人であり、人々の羨望の的である男性パートナー(ポール・ニューマン、カーク・ダグラス、ロッサノ・ブラッツィ、アルベルト・ソルディ、ニーノ・マンフレディ、ジャン=ポール・ベルモンドといった男優たち)と一緒にいる場面を最もよく見られた女優の一人でもある。彼女は映画では幸福であったが、感傷的な人生においてはそうではなかった。実際、映画製作者ライモンド・カステッリ(1960年代初頭に彼女と結婚)との結婚でつまずく。この結婚は1967年に、カステッリの重婚が発覚し、法的に無効となる。彼女を待ち受けていたもう一つのスキャンダルは、プレイボーイ誌イタリア版で上半身ヌードを見せたことである。それは、非常に美しく、また全く露悪的ではなく、ソフトで傷つきやすいものであった。
彼女は喜劇舞台“Biondissimamente tua”(1966)やテレビでも活躍した。後者ではいくつかのコマーシャルと、とりわけエドモ・フェノーリョの“I giacobini”(1962)、ディーノ・リージの“...e la vita continua”(1984)のような連続ドラマで姿を見せた。喜劇ではアルベルタッツィ監督による“Topaz”(1970)、またはディーノ・ブッツァーティ原作・ギルベルト・トファーノ監督のオリジナル・テレビドラマ “Don Giovanni”(1961)、ヴィットリオ・デ・システィ監督の“Casa Cecilia”(1982および1984)等。彼女の最後のテレビ出演は、ツッチオ・テッサリの“Una grande storia d'amore” (1987) である。
(この項の記述 E. Lancia)
シルバ・コシナ非公式ホームページ トップへ